短歌切れ是不是所说的《短歌の句切れ》?
如果是《短歌の句切れ》的话请看看下面的解释是否能得到帮助。
「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。
以下のような场合があります。
1、切れ字のあるところ。
「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。俳句の项目で调べると分かります。でも、松尾芭蕉は「全て切れ字」とも言っていて、本质的には奥の深いもので、一概に「これが切れ字」とは言えません
↑「けり」は「咏叹の助动词」です(「助词」ではない)。
2、系り结びの结んであるところ。
系助词「ぞ」「なむ」「や」「か」は连体形で结び、「こそ」は已然形で结ぶ。
3、终止形や命令形で言い切っているところ。
4、体言止めで言い切っているところ。
ただし、体言で句が终わっていても、そこへ「を」「に」などの助词を补ってあとの句へ意味がつながるような场合は、ここを句切れとは考えません。
5、倒置法のあるところ。
6、呼び挂け法のあるところ。
韵文の场合、芸术的に感心できませんが、一応、「解釈(分かりやすい现代语に訳す)」をしてみると、句切れも分かるかと思います。
*防人に・・・
あの九州の警备兵として徴兵されていくのは谁の旦那さんかしらね、と讯く人を、见ることのうらやましさと言ったらないよ。なんの悩み事もなくて(あの防人は私の夫なのだよ、私には危険な国境に夫を送り出すという悩みがあるのだ)。
→「ともしさ」が体言止めで、意味的に倒置法なので四句切れです。
*多摩川に・・・
多摩川に晒して作る布を见ていた。その「さらす」という音でふと思い出したが、さらにさらにどうしてあの子がこんなに恋しいのだろうか。
→「多摩川にさらす手作り」までは、「さらさらに」を导くための「序词(じょことば)」で、和歌の解釈としては内容的な意味はなく、「手作り」は体言止めで、二句切れです。
*君待つと・・・
恋人のあなたの访れを待って私があなたを恋い慕っていると、私の家の帘を动かして、あなたの代わりに秋の风が访れ、あなたはまだ来ないのだった。
→顺当な流れのうちに结句まで言い切っている歌で、句切れなし。ちなみに、古今集以降だと、「秋风」を「饱き」との挂词(かけことば)と考えて、恋人の访れがないのを、恋人とが自分に「饱き」たからだ、と、别れや失恋を暗示するのですが、万叶集だとそこまで読むのは深読みと考えられるでしょう。単に季节がほんとに秋だっただけ。女心の寂しさは咏み込まれているけど。
*近江の海・・・
琵琶湖に夕方立つさざ波に群れ游んでいる千鸟たちよ、お前が鸣くと、私はひどくしみじみと悲しくなって、昔のことが偲ばれてならないよ。
→「夕波千鸟」を呼び挂け法と考えても、単なる体言止めと考えても、いずれにせよ二句切れ。
*うらうらに・・・
うららかに照っている春の阳射しに云雀が空高く舞い上がり、私の心はいっそう悲しいなあ。一人ぼっちで物思いに耽っているので。
→「心悲しも」の「も」は、上代特有の助词で、咏叹を表すので、ここで切れて四句切れ。春の忧愁(メランコリー)を咏い、万叶集としてはかなり进んだ、中古的美意识をもって咏んだ歌。云雀の楽しそうなさえずりと、自分の忧郁な物思いとの対比。
万叶集の和歌には、二句や四句の偶数で句切れのある歌が多いのです。
五七/五七/七
と「五七」のリズムが强调されるので、「五七调」と呼ばれます。
(古今集以降の和歌は、初句や三句の奇数句で句切れのある歌が多く、五/七五/七七と「七五」のリズムが强调されて、「七五调」と呼ばれます)
五七调の和歌は、五音という軽い上半身を、七音という重い下半身でしっかりと支えるので、歌体が安定し、堂々とした力强い响きをもたらします。
七五调の和歌は、反対に、七音という重い上半身が、五音という軽い下半身の上に乗っかる格好になるので、歌体はふらつき、なよなよとした流丽な流れの良い歌になります。